大学院生の睡眠事情:時間という枠組みの拘束性

M2の頃に書いた文章が出てきたので公開します(供養)。

 

 


数ヶ月前、「昼夜逆転」して体調を崩していたので、その経験について書く。以下の文章はあくまでも私自身の経験に基づき、その経験から考えたことである。主題は、“時間という枠組みが、人間の生活においてどのように作動しているか”である。
まず、昼夜逆転という事態それ自体は特に心身に問題はないように感じた。朝8時に起きて、23時に寝るのが標準的な睡眠周期だとすると、私の場合は、朝8時に寝て15時頃に起床するというように、寝る時間が大体後ろに9時間ずれていた。夜型であっても、7,8時間の睡眠時間をとっていた時期は体力的な問題はなかった。入眠の時間帯がズレているだけでは心身に問題はない。
問題なのは、むしろ、周囲の環境の時間リズムと自分の時間リズムが一致しないこと、およびそのことによって引き起こされる睡眠時間の減少であった。1週間のスケジュールのなかには、必ず午前中に起床しなければならない予定がある。バイト、授業、調査や勉強会などである。そういうときは、帳尻を合わせるために、睡眠時間は2,3時間ほどになる。こうなると体力的にきつくなるし、起きている時間の集中力の低下など様々な弊害が出てしまい、さらには睡眠周期が狂ってしまう。これが辛かった。
結局体調を崩し、7月はそれまで3つ掛け持ちしていたアルバイトのうち2つを完全に休職して、なるべく心身的な負担を減らすことを試みた。7月中の授業は半分くらい休んでしまった。夜眠れず、朝起きられないのだから出席できないのは当たり前である。修論のためのフィールド調査にもほとんど行けなかった。昼夜逆転に伴うこのような「失敗」も精神的負担の要因であるように思える。そして、ますます眠れなくなり、大事な時に起きられなくなり、外に出るのが億劫になるという負のスパイラルに陥った。

 


ある人がどのように一日の時間を用いるか、時間を過ごすかということは、単にその人の好みによって決まるのではない。例えば、世の中の時間の流れは大体「朝型」と呼ばれる周期に設定されている。少なくとも標準的な大学院生の生活リズムは朝型になっている。「なっている」というのは単に個人の好みを超えたレベルで、そのように方向づけられているという意味である。というのも、大学の授業の時限は、朝から夕方までというように朝型を前提としている。大学院生は、授業という一つの観点から見ると、「制度的に」朝型ということを前提とされる存在である。だから、“自分は朝が苦手なので、1限は11時スタートに設定する”などということはできない。あるいは、「9時5時」というのは、単に個人の好みを超えたレベルで生活リズムが決定されていることの典型例である。「9時5時」が何を表すかはあえて言わなくても分かるだろう。どうして分かるかというと、この時間の枠組みは、一般的な常識的知識として通用しており、実際にそれが用いられているからである。何らかの社会組織に属している人々は好むと好まざるとにかかわらず、この「社会的に共有された時間の枠組み」を生きることになっている(「強いられている」と言い換えてもよいだろう)。
このように、どのように(どのような)時間を生きるのかは個々人が自由に選べるわけではなさそうである。ある特定の時間枠組みは、それに関連する人間がどの時間帯にどのような活動をするのかということを規定するし、そのことは間接的に、その人間がいつ眠るのかを規定する。時間とはこのように作動しているのである。したがって、「朝型」のなかで生きている人々は、一旦「夜型」になってしまうと、「生きるべき時間リズム」と「生きている時間リズム」に齟齬が生じ、心身が疲弊してしまうのではないかと結論づけられる。言い換えると、「昼夜逆転」、およびそこから引き起こされる様々な心身の不調は社会的要因によるものなのである。

 


ここで、「睡眠障害」という症状は、社会の時間リズムという社会的要因ではなく、ホルモンバランスなどの生理的要因に起因するのではないか、という反論もありうる。私は睡眠という生理的活動にホルモンなどの要因が無関係だとは主張していないし、生理的要因と、上述したような社会的要因が対立するとも考えていない。もちろん、人間の生理的要因が睡眠に関係しているだろう。しかし、脳や身体の生理的・物理的な状態が変化するだけでは、社会的にはまだ何も生じていない、と考えることはできないだろうか。つまり、生理的要因が我々にとって意味を持つのは、私たちの生活に深く埋め込まれている限りにおいて、である。以下ではこの点を論じる。
第一に、例えば、いつ寝てもいつ起きても自由であるような生活を送っている人間がいると仮定した場合、その人間は睡眠周期について悩むことはないのではないと考えられる。その人は何にも強制されることなく、自分だけの時間の枠組みで生きることができるからである。もちろん、ほとんどの人間は実際にはこのような「理想状態」の生活を送れるわけではないだろう。社会で生きる人々は何らかの「社会的に共有された時間の枠組み」に自分の生活リズムを沿わせることで生活を送っている。そして、その時間の枠組みから逸脱してしまったときに、「睡眠障害」が引き起こされるというわけである。
第二に、昼夜逆転し、睡眠障害に苦しむ人が病院で睡眠薬を服用してもらうということはよくあることである。睡眠薬による生理的状態の変化により、その人は夜にぐっすり眠ることができるかもしれない。ここで考えたいのは、なぜ睡眠薬を服用するという選択に至るか、である。まず、答えは、夜眠れないからであろう。そして、なぜ夜に眠らないといけないかというと、日中の活動に悪影響が出るからであろう。この「日中の活動」に「社会的に共有された時間の枠組み」が結びついていることを見出すのは容易である。このように、「生理的要因」だけで昼夜逆転睡眠障害を考えることはできない。そこには必ず社会的要因が結びついている。

 


最後に指摘したいのは、「社会的に共有された時間の枠組み」の複層性である。例えば、一般的な企業は、24時間の中では「9時5時」という枠組みが用いられている(もちろんフレックス制などにより異なるが)し、1週間で見ると「月から金までが労働日」という枠組みが用いられている。1年の中には、「繁忙期」があったり「閑散期」があったりする。大学院生は、大学ごとの時限設定があり、週5日の授業日があり、4学期という区分とその間の長期休暇がある。一般的な企業に属する人々と比べると、大学院生にとっては「平日」と「休日」の境界が曖昧であると考えられる。院生は、土日だからといって作業をしないということはない。むしろ積極的に研究に関わる作業をしているだろう。このように、「朝型」という点で共通しているように見える人々同士であっても、内実は異なっているし、1日・1週間・1ヶ月・1年という様々な周期ごとに異なる枠組みが複層的に作動していると考えられる。